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円坐の道場

武道体験とゲシュタルト

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“生きる手ごたえ”に気づく
​武道とゲシュタルトの統合による、新たな気づきと成長の場

​日常を生きる中で、
こんな思いはありませんか?

「他人や、社会とかかわるのが怖い」

「自分に自信が持てない」

「自分や、他人を信頼できない」

「どこか、本当に生きている感じがしない」

「自分らしく生ききれない、不全感がある」

「むなしさ、寂しさが常にある」

「しあわせなはずなのに、充実している感じがしない」

「もっと自分のエネルギーや感覚を、思い切り使って生きたい」

「わたしらしく、他者や世界とかかわり、生きていきたい」

そんな想いや葛藤がある方に

この円坐の道場に来てほしいと思います。

”わたしがわたしとして生きている、手ごたえ”を

一緒に感じてみませんか。

円坐の道場とは

武道体験という、

ソマティック・

アプローチ

正しい身体操作を身に着け、突きや蹴りを放ち、相手の動きに対応していく。

今、ここのからだを感じ、動き、他者と関係していく武道の営みは、自分が自分らしく、しなやかに生きる上でとても多くのことを教えてくれます。

​打撃を放つ体験は、自己の内に眠る力強さやエネルギーがあることを、鮮烈なインパクトと共に教えてくれます。

からだでじかに他者とコンタクトする体験は、”わたし”と”あなた”が生きているというたしかな手ごたえに気づく体験になります。

近年、急速に広まっているソマティック・アプローチやボディワークとはまた異なる、新しい、そして伝統的な身体的アプローチです。

武道、

ゲシュタルト、

その統合

他にはない、武道とゲシュタルト(心理療法)の統合的なアプローチをとっています。

武道体験で自身のエネルギーや他者とのコンタクトを経験しながら武道の力強さを体得していきます。

同時に、そのプロセスで起きる、さまざまなこころの機微、感覚、感情といった繊細な面にも焦点を当て、ゲシュタルトワークや対話、シェアの時間によって気づきを深めていきます。

そうすることで、安心・安全な場で、よりからだの実感から生まれた、豊かな気づきや自己理解を得ていくことができます。

禅の修行においては、”調身・調息・調心”という原理がありますが、武道とゲシュタルトにも同様に、”身”から行に入り、”呼吸”と身体を調和させていくことで、”心”が澄み、ゲシュタルトワークに深まりが生じるように思います。

身体的なアート表現、

対話的関係性、

​”生きる手ごたえ”

自分のからだに宿るエネルギーに触れながら、そのからだから、他者に思い切り自己表現していく武道の営みは、アートでもあります。

そのように思い切り自己表現できることは、生き物としてのいきいきとした活力を生みます。また、十分に自分を表現できたという感触は、自己信頼につながります。

そして、思い切りぶつかり、それを受け止めてくれる他者がいること、また見届けてくれる人がいることは、”わたしがわたしとして生きている”というよろこびや感触、”生きる手ごたえ”になるように思います。

それは、ひとつの”癒し”の体験にもなりえます。​

精神科領域で活動する

心の専門家が行う、

武道とゲシュタルト

精神科領域を中心に、臨床心理士・公認心理師として10年以上のキャリアを重ねてきました。心の悩み、問題の多くは、ストーリーを語ることや考え方を見直すだけではなく、我々は生き物として、このからだ(心=身体)を以て、環境との相互作用で生きているという視点が欠かせないと実感します。

さまざまな臨床経験のなかでも、自分自身の私的な体験としても、人が自分の内奥を感じ、生き物として自然な感情や感覚・エネルギーに気づき、表現できることは、自分らしく生きることや、心身の健やかさにおいてほんとうに大切だと感じます。

その意味で、武道とゲシュタルトは「この世界・社会の中で、自分が自分として生きる」ことを力強くサポートしてくれるアプローチだと思っています。

精神科デイケアでも武道を実践し、その意味や効果を実感してきました。

理屈ではなく体感と実践から生まれたこのアプローチを、僕自身楽しみながら、伝えていきたいと思います。

参加者の声

単回で開催した「からだの静と動 武道体験とゲシュタルト」にご参加いただいた皆様にご記入いただいたアンケートの一部です。

(「本日のワークショップで印象に残ったことを教えてください」に対するご回答、順不同)

道場主(ファシリテーター)

岡本 太郎

臨床心理士・公認心理師

こころの相談室en 主宰

ゲシュタルト療法家

精神科・心療内科クリニック勤務

ゲシュタルトネットワークジャパン スタッフ

武道歴:極真空手、伝統派空手、ムエタイなど

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主催者よ
たましいの拠り所として

「自分が生きている、存在することの意味や価値を感じられないのは、つらく、むなしい。
価値観が多様化したり、じかの人間関係が希薄な現代は、“自己肯定感”はどこか地に足のつかない、うつろなものになり、自分の縁(よすが)がどこだかわからなくなります。


そんな中で、ゲシュタルトの場と体験、そして場の中での出会いは、「私が私でいい」ということを実感できます。自分に血が通っていることにからだで気づき、同じく血の通った他者のありように触れるからです。そのぬくもり、手ごたえが、人生や日常を生きる勇気や希望をもたらします。


それと同じような体験を、僕は武道の中でも得てきました。

学生時代、人が怖くなり、自分に力も価値も何もないと、むなしさや絶望を感じていた時期に空手に出会いました。稽古や鍛錬は、僕に「生きる力がある」「他者とぶつかることができる」「ぶつかりの中に、つながりがある」ことを教えてくれました。


円坐の道場は、僕にとってのたましいの拠り所であった、ゲシュタルトと武道を核にした場と体験です。

武道体験によって自身に眠る力強さを実感し、ゲシュタルト・アプローチによって体験の中で起こる繊細な柔らかい感覚も大切にし、触れていくことができます。
こころとからだの静と動、剛と柔の両極を味わいながら、自分とは何者かに気づいていく。

​からだとからだでコンタクトするその営みは、対話と出会いになりえます。

本来、道場は上座と下座ですが、ここは上下関係は取らない円坐の場。

道場主はいますが、人生の主人公として気づき、選び、生きていくのはその人自身です。
人と人の存在やあたたかみの中で、自分が自分として生きる手ごたえに気づき、育んでいく場をともにつくっていけたらと思います。」

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