生きもの同士のあそび場として
- Taro Okamoto

- 3月29日
- 読了時間: 4分

「円坐の道場 武道とゲシュタルト」は、僕自身の確かな実感から生まれたものです。
人と人が、ほんとうに対話し触れ合った瞬間。
その時、これまで生きてきた自分の世界がひび割れる。
新しい何かと出会う。
自分の中にすでにあった、生き生きとした感情や生命のエネルギー。
あるいは確かにわたしとともに居る他者の存在感、あたたかさ、力強さ。
その経験は、自分の生きる地平のその先に、世界はちゃんと広がっていて、そして自分の足で歩み、進んでいけるという“生きる手ごたえ”になっていきました。
人を恐れて、自分が信じられず、生きていくことが不安で仕方なかった僕にとって、この手ごたえがどれほど救いになったかわかりません。
そのような体験を与えてくれたのが、武道の身体的な営みであり、ゲシュタルトの実存的な対話の場でした。
幸いなことに、そんな個人的な体験から始まった場に、多くの方がこの2年間に来てくれ、一緒に場を過ごすことができました。
研究発表という形で、これまでの実践を振り返り、学会発表という貴重な経験もすることができました。
その中で見えてきたことがいくつかあります。
一つは、“身体は意識に先行する”ということです。
身体は意識的な判断や推測、意味付けよりも先に、この場が安全であるのか、相手が信頼できるのか、ということをまさに肌で感じ取っています。
武道的な身体的コンタクトの継続は、“わたし―あなた”の関係性を潜在的に深めていくプロセスでもあります。
その積み重ねの中で、場に対するたしかな信頼がつくられていきます。
そして、自身の中に眠らせていた、あるいは凍らせていた感情やエネルギーに触れて、解き放つことができるタイミングがやってきます。
もう一つは、“役割や構造という器によって、安全かつ確かなコンタクトへ至る”ということです。
武道であれば、師―弟。心理療法であればセラピスト(ファシリテーター)—クライエント(ワーカー)。という役割関係があります。
円坐では武道のパートで、ある程度武道の身体操作を僕が教え、さまざまな稽古体系の中で決まったやり取りをすることから始めます。
なので一般的な心理療法よりも、指示や指導の量は多くなります。人間性を感じる対話的な関係や自由な交流とは一見すると反対のようです。
しかし、そのような役割や構造があることで、コンタクトしていく不安や心身の可能性を抱える“器”となります。器の中で、安心して自分の身体感覚やエネルギーを感じることができるのです。
そして段階的に、他者に触れ、心と身体を使って深く交流していくことをサポートしていきます。
このようなプロセスを、特に第1期・2期のメンバーと共にしてきました。
最後に、このような身体中心のコンタクトの場は、“むなしさの処方箋”でもあると思っています。
ネットやSNSの普及によって、簡単に世界とつながれる時代になりました。
連絡はもはやすぐに、どこからでも、取ることができます。
興味のある知識も簡単に手に入ります。
しかし、私たちは本当に満足しているでしょうか。むしろ複雑になったり、繋がりやすすぎるがゆえに息苦しくなったり、かと思えばさして手ごたえのない、かえって寂しい関係性であったりはしないでしょうか。
円坐の場は、生きもの同士のつながりやぶつかり、たわむれの場ともいえると思っています。
言葉を越え、意識を越え、生きものとして、世界をともに生きる喜びや面白さ、手ごたえを一緒に感じることができたらいいなと思っています。
少し長くなってしまいましたが、今の円坐への思いを書き連ねてみました。
僕自身のたましいの拠り所でもあり、そして集ってくれた皆さんと共に創ってきた場です。
初めてだけど気になっていた方も、
これまでご参加いただいた方も、
手ごたえある半年間を、ご一緒しませんか。
お待ちしています。
詳細・お申込みはこちらのページからご覧ください。

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