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  • 執筆者の写真Taro Okamoto

禅と心理療法


先日、東京郊外の禅寺に参禅しに行ってきました。

偶然のご縁から、仲間と一緒に定期的に座禅に通っています。

坐禅のやり方としては、坐布(坐禅用の座布団)に結跏趺坐もしくは半跏趺坐というあぐらのような形で足を重ねて座ります。足の上で両手を重ねて親指を合わせ、背筋を整えます。目は半眼で少し前の床をぼうっと見ます。

座り方が整ったら、あとは線香が消えるまで(およそ30分)自分の呼吸に意識を向けて数えながら、ひたすら座り続けます。



“ちょっと腰が痛い”“あとどのくらいやるんだろう”“今日の昼めしは”とか、いろんな思考が頭をよぎりますが、思考に気づいたら、そのまま呼吸に戻ります。

眠気に襲われて意識が飛びかける時もありますが、ただ座って他の何者でもない自分のからだに立ち還る時間は、静かで気持ちがいいです。

自分だけでなく、外の鳥のさえずり、やわらかい風、山や木のにおいといった外の世界にも気づき、心地よさを感じます。


特にこのコロナ禍云々で、情報に敏感になり、不安を抱えやすい今ですが、いったんそういたものから距離を取ってリセットできる時間になります。



ご指導いただいている若和尚から、先々代の和尚である加藤耕山老師が講話などでお話ししたものをまとめた文集を頂きました。

読んでいると、老師がどれだけ坐禅を信頼して実践されてきたか、その迫力や説得力が、違和感のない自然さとともに入ってきます。

一節にこのような文章があります。



「体から整理して行け。従って心がよくなる。心→体→心→体→心・・・と、どこまでも心と体か調和してくる。八十四歳でも炎天下でも、さして苦しくはない。禅のためだ。体を統制するのが坐禅。体のすべての力を臍下丹田に集中する。統制する。それが坐禅の力である。暑さ寒さ、心に苦しいことがあっても。さして苦にならぬ。坐禅の力である。」

「もの知り、講釈だけでは身心は思うとおりに統制できぬぞ。身心を自由にこなすことだ。労働でも勉強でも能率が上がる。」



このように、坐禅は“身体の営み”であるということが至るところで言われていました。

「坐禅は運動である」とまで書かれているのもあって、へえー運動とまで言うのかと驚きました。坐禅を続けることで、どっしり坐り続けられる体の軸や、「ハラ」を養うことを大事にしているようで、僕にも武道を続けてきた中で感覚的にわかる気がしました。身体の軸や重心がしっかりすることで、心も安定していきます。

また、禅は頭や知識で理解するのものではない、ということも強調されていました。



僕が学んでいるゲシュタルト療法も、身体の気づきを重視します。

頭で自分や他者、外界を理解したり知識をもつこと、想像することよりも、身体で感じる感覚が、本来の自分自身の気持ちや感情、自分の気づいていなかったエネルギー、また外界を感じ取るセンサーであると考えるからです。

なので、ただ言葉で語るだけでなく、身体に意識を向ける、感覚を味わう、身体から自然に生まれる動きを大切にする、といったことに焦点を当てます。

ゲシュタルトが「実践的な心理療法」といわれる一つの所以でもあると思います。

また、近年の心理療法も「ソマティック(身体志向)」のアプローチを重要視しています。



創始者のフリッツ・パールズが日本で禅を体験するなど、ゲシュタルトの背景に禅はあるのですが、老師の言葉を読んでいると、方法や表現の仕方は違えど大切にしていることは近いんだろうなと改めて感じました。

ゲシュタルトのワークも重ねていけば、労働も勉強も能率上がるかもしれませんね。



僕たちは人間である以前に、動物であり有機体である、といえます。

学校や社会、現代の文化の中で懸命に生きていると、そのことを忘れて、からだを置き去りにして規範やルール、想像や空想の世界、そこから生じる不安や疑念の中に生きてしまい、自分が本当に何を感じて、望んで生きているのか見失ってしまいやすいように思います。

自分のからだに立ち返り、その声を聴くことは、生き生きとした自分や今をしっかり生きること、納得のいく人生を送るための一つの原理かもしれません。





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